宇治友好都市・中国咸陽市の紹介


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(1)プロローグ

 この記事の内容は、「日本郵趣協会」宇治支部・川西支部長の著作により、「うじ郵遊」第8号より連載されたもののダイジェスト版です。なお、ソフトの都合上、一部中国の簡体字等を日本漢字に置き換えて、当て字(文中下線部)にしてあるものがありますが、ご了承ください.(挿絵:Kana


(2)咸陽市付近のようす   (第8号記載)

中国咸陽市は中国の中央部の北に位置する陜西省の省都・西安から東北に約25Kmにある人口約460万人(市中部は約25万人程度)、面積は兵庫県と阪府を足した大きさくらいの市であります。咸陽市の下には行政的には市が1つ、区が3つ、県が12あります。ちょっと、宇治市とは比べものにならない大きさですね。

 陜西省は、東は山西省と河南省に、西は甘粛省と寧夏自治省に、南は湖北省と四川省に、北は内モンゴル自治区に接した乾燥地帯(ステップ気候)中心の省であり、歴史が古くいわば漢民族の発祥地でもあります。この省の黄土高原中部は、黄河の一大支流・胃水が西ら東に流れる漢中平原(中原)と呼ばれる地です。この中部と南部を隔てるように東西に秦嶺山脈が走り、日本でも有名な太白山や終南山などがあります。

中原は、「ちゅうげん」と読み、「中原に鹿を追う」と言う有名な言葉が日本にもありますね。

さて、今回からはこの咸陽市の紹介をしていきますが、第1回目はその歴史的なお話からしましょう。咸陽市は、この省の中原に位置し、古くから開けたところです。特に秦の始皇帝が都を置いた(約2200年前)ことでも有名です。古来、長安(西安)の都からしても渭水の北岸の陽のあたりやすい河岸段丘(南向斜面となる)は、咸陽(陽の当たる場所)と言う名に由来するように風水のいい場所であり、歴代の皇帝達の永遠の住居として陵墓が築かれました。漢代、唐代の大部分の皇帝達の墓はここにあります。

宇治市との関係は、お互いに歴史の古さや、川(渭水)を隔ててことに対時することから友好都市に相応しいものとされ、友好都市締結がなされました。

咸陽市の歴史はこの渭水のことを抜きには語れません。古くは周の文王の時代、大公望の物語も渭水のほとりの話ですし、秦の始皇帝の咸陽は渭水をまたぎ宮殿の廊下があるくらいの大きさでしたし、唐時代の王維の詩の『渭城の朝雨軽塵をうるおし・・・』もこの渭水のほとりのことです。今は黄色い泥水が流れるこの渭水(幅数百メートルある)は古くは水も清く、その歴史と人々の生活を育んできました。

このように古来より歴史上に有名であった咸陽は長安から都が洛陽に、そして全国に転々と移っていくに従い寂れて、今世紀初頭には貧しい一寒村に過ぎない程でした。しかし、開放後ここに一大織物工場などが建設され大きな都市に変貌しました。

約千年ぶりの復活と言えるでしょう。それだけにこの都市建設で数々の文物が出土し、咸陽市博物館には国宝級のものが沢山あります。漢時代の兵馬俑や周時代の青銅器、唐三彩の陶器類などは特に有名です。ぜひ、行かれたら見学されるとよいでしょう。現在では、西安・咸陽国際空港と日本の名古屋との間に毎日1便の国際便があり便利です。シルクロードの入り口としての役割は今後ますます重要になるでしょう。


(3)名物に旨い物あり   (第9号記載)

 咸陽市の辺りは気候区ではステップ気候に属します。日本は温帯モンスーン気候ですね。このステップ気候は半砂漠気候とも言われ、比較的雨が少ない気候です。それですから、ここでは稲作はできません。冬小麦とトウモロコシの栽培が主です。また、果物もリンゴ、杏、モモ、ブドウ、柿、ザクロなどが豊富で、美味しいものです。ほかにタバコの栽培も盛んです。

 さて、このような気候ですから、人々は主に小麦やトウモロコシを主食にして来ました.古くから中国語に『北方人喫麺、南方人喫米』と言われるように特にこの咸陽市の人は麺が好きです。

 咸陽市の人の主食は朝なら、薄いお粥(水が八分くらいのお粥で、乾燥しきった中では南のようなお粥では口にあいません。)かマントウ、そうでなければ餅子(小麦粉をこねて窯で焼いた物)です。急いで時間のない人は『油餅』と言われる小麦粉で出来たパンを油で揚げたようなものを、外で買って食べます。昼も夜も一般的には麺もしくはマントウです。お客があれば、水餃子も作ります。お米も少し食べますが、やはり麺が多いようです。

 この麺の種類は数多くあり、どれも美味しいものですが、一般的にはその味付けにおもしろいう工夫があります。それは唐辛子で出来たラー油や唐辛子味噌と黒酢を使うことです。

 日本に来る咸陽の人はみんな日本のラーメンやうどんを食べるとき酢や唐辛子味噌を要求します。その量たるや中途半端ではありません。

 トウバンジャンなら大匙で軽く三杯、何もなければ七味トウガラシを瓶ごと使いそうな気配です。また、酢もたらすよりも小皿一杯の分量をぶっかけて使います。

 これに挑戦できる日本人はそう簡単にはいないでしょう。しかし、その辛さになれてしまうと、酢と麺はこれほど相性がいいのかと思えてきます。まさに、米と塩の関係です。

 麺、皆さんも咸陽市に行かれたら是非試してみてください。名物に旨い物有りと私は思いますが、99%の日本人は吐き出してしまうかもしれません。


(4)まさにお墓参り・圧巻な古代の陵墓群 (第10号記載)

 咸陽市の郊外は地平線までの農地。その農地に並ぶ升型の山、それらはすべて前(西)漢時代の 皇帝の陵墓群です。

 これらは皇帝の墓を中心として陪葬墓が数十もあり、それがワンセットになって数十のセットが大草原に点在しているのですから、まさに圧巻です。

 漢時代の皇帝の陵墓群の特徴は版築工法と言って、粘土を突きかためて造った物ですから、どのくらいの人々が気の遠くなるような時間をかけて造ったか、ともかく信じられないくらいのものなのです。陵墓の近くに行って見ますとまさに山です。いずれも上が平らになっており、そこには潅木が茂っていますが、夏に上ると風があり涼しいものです。また、皇帝の陵の近くには皇帝の霊を祭った建物群の跡がたくさんあり、農地の中には瓦などをあっちこっちに積んであります。中には模様や文字入りのものも探せばあるようです。

 有名な漢の武帝の茂陵は自分の治世の54年間の52年をかけて造った物で、彼の死後、乱により墓をあばいて中の物を運び出した時、その運搬だけで3ケ月を要したと言います。一体、皇帝のお墓のにはどんな物がどのくらい埋葬されているのか、想像もつきませんね。

 さらに、咸陽市の町から数十キロの山にはその自然を利用して、唐時代の皇帝の陵墓群があります。この陵墓群も漢に劣らず凄い物です。

 唐と言えば、このような陵墓群とは遠い、西の郊外数十キロの道端に小さなレンガで覆われた土饅頭がありますが、これが有名な楊貴妃の墓です。玄宗皇帝の治世に起こった安禄山の乱により、四川に逃れる途中、彼女の従兄弟の楊国忠のこれまでの行いに激怒した兵士たちの要求により、玄宗皇帝が泣く泣く彼女に死を賜ったのは有名な話です。

もともと土饅頭でしたが、女性がこの土で顔を洗えば美しくなると言われて、土を持って帰るので、レンガで覆われたとか。いつの時代の、いつの女性も美しくなりたいようです。


(5)渭水のほとり・歴史を育んできた河 (第11号記載)

 今回は、渭水について述べましょう。

 まずは次の詩を思い起こしてください。

   渭城朝雨邑軽塵 客舎青々柳色新

   勧君更尽一杯酒 西出陽関無故人   (王維『送元使安西』)

 これは唐の時代の王維が歌った詩で西域に行く友人を長安(西安)から、渭城(咸陽)に送って来た詩です。内容は渭城(咸陽)は朝から雨で、宿舎の柳は黄土の塵を洗い、清々しい緑色を表したが、門出に相応しい美しい風景だ。友人に一杯の酒を勧める。西域の陽関に行けばもう帰って来れないし、酒を勧める友人もいないことであるし、という内容である。

 詩の題の『送元使安西』とは元と言う姓の二郎さんとでも言う程度の名前(本名ではなく、その人の家族関係)の人が西域の陽関に転勤するので、送って渭城(咸陽)まで来て歌った詩である。

 さて、友人が地方に転勤などで旅をするには、昔は渭城(咸陽)の宿場まで送って来てここで別れるのが恒例になっていたようだ。これは、江戸時代に江戸から品川の宿まで友人たちが送っていったのと同じである。

 長安を出て渭城(咸陽)へは手前に大きな河がある。それは都からすれば、この河を渡ればもうそこは都ではない、田舎であり、さらに異国への第一歩である。

 この詩はまさにその友人を思う心がヒシヒシと伝わる素晴らしい詩である。

 そして、京都と宇治も宇治川という川があり、それは同じような土地条件であるが、宇治は都人にとってまだ別荘の地であり、同じような関係はむしろ逢坂山であろう。

 さて、この河、昔は水清い河であったようで、周の分王の時代も太公望がここで釣りをしていたのだ。今は、水も少なく泥水が流れているだけだが、人が長い歴史を通じて行った環境破壊の結果はここにもある。

 しかし、西安からバスに乗ってこの河の橋までくると、ああ帰ってきたと思うのは咸陽人であろうか。やはり、渭水は咸陽人の安らぎである。

 咸陽人は渭水のイメージが強いが、西安人は無関心である。

 ところで陽関とは西安から特急で二泊三日の距離である。


(6)咸陽市の繁華街・郵便局辺りの散歩 (第12号記載)

 咸陽市の郵便局は渭水に沿って数百米離れた東西の通り・人民路の交差点の角にある。この辺りは咸陽市の最も賑やかな所で南北の通りを含めて繁華街である。近くには人民広場もあり、数年前までは西安行きや遠くは寧夏自治区の銀川までの長距離バスの発着場もあった。今は交通渋滞も著しいので場所を移転させたようだ。

 この郵便局の辺り、食べ物屋や一般商店がところ狭しと並んでおり、京都で言えば、四条河原町といったところでしょうか。もちろん、裏町に入れば寺町や新京極といった趣のところもあります。そんな、街角に咸陽市の綺麗なビルが郵便局です。最近建て替えられたもので、それまでは塔のある、どちらかと言えば古びたロシア風の建物でした。中も薄暗くサービスも悪い、行くのもおっくうになる郵便局でした。

 今は、綺麗で、中のサービスも単に経済開放政策で言われ続けたサービス向上のスローガンのせいだけでなく、ビルの環境が大きくサービスの良さに影響していると思うのは外国人の私だけではないはずです。

 この郵便局、日本とは違い電話事業も行っており、今は携帯電話や家庭の電話の普及で大変お金持ちになっています。それまでは、郵便局員と言えば、苦労の大きい給料の安いとの代名詞のような感じでしたが、今は大きくイメージが変わりました。

 郵便局はその他、貯蓄業務や雑誌・新聞の販売、公衆電話(主に長距離・国際の)、切手公司(記念切手のたとうや郵趣用品の販売)も行っており、日本とは少し違います。

 もちろん、こう言った本局だけでなく、日本で言えば、特定局に当たる郵便局も数多く街角にあります。中国では郵便のイメージカラーは緑色です。余談ですが消防車は赤、これは日本と同じですが、救急車も赤です。しかし、病院の救急車は日本と同じ白です。郵便が緑とは私も初めて中国に行った時に目の前に郵便ポスト(カウンターの上の箱)が解らず苦労した思い出があります。

 最後に笑い話を1つ、「中国では緑化の日が3月にありますが、それは会社単位で敷地の植樹の競争日でもあります。『私の会社では緑化の日を待たずに全て緑化しました』と偉そうに言う人がありました。それを聞いた人が、『あなたの職場は?』その人は『もちろん、郵便局さ』と答えました。」おあとがよろしいようで・・・。


(7)咸陽市・市役所辺りの散歩(第13号記載)

 咸陽市の市役所は、渭水に沿った東西の通りが国道西蘭路の交差する地点から約三百米はなれた東側にある。この辺りは咸陽市でも比較的静かな街で西には人民代表大会の建物、そして東側には陜西中医学院付属病院が続く。通りを挟んで、前は渭濱公園。そして、その南側は渭水、渭濱公園の西側は咸陽市体育館である。

 この辺り、人の往来は結構あるが、やはり人民路の賑やかさとは違う、落ち着いた雰囲気がある。

それは、渭濱公園の樹木が作り出しているのかもしれない。そして、市役所の前、渭濱公園の門のすぐ東横に白いモスク風の建物があまり気付かれずに建っている。この建物よくみれば立派な大きい建物であり、ここが有名な羊肉泡沫(ヤンロウパオモ)のお店である。日本人にはあまり知られていないが羊肉泡沫は中国でもこの辺りの有名な食べ物で、その起源は西域である。回教徒たちは牛は豚を食べないが、中国の回教徒の集団である回民たちが作り出した食べ物で、それは栄養価が高く、一日これ一椀で重労働に耐えられたとも言う名物料理です。

 どんな料理かといえば、小麦でこしらえた餅(ナンの一種)を細かく砕いて(自分で細かく砕くのが一番よい)、羊の肉の入ったスープ(他に春雨も入っているのだ)をそれにかけて食べる料理で、その椀は、日本のラーメン鉢ほどの大きさである。

 みなさんも機会があれば、食べてみたらいいとお薦めする料理である。筆者はこれが好きでよく食べにいくが、この前そっと内緒で食べに行ったら、どこをどう見られたか新聞に書かれてしまった。「我が市の名誉市民、日本の○○さんが羊肉泡沫をこっそりと食べていた・・・」という記事である。

 渭濱公園は、咸陽市の中では大きな公園で、かつては動物園もあったが、今はなくなってしまった。この公園の中には宇治市や成田市との友好都市の記念碑などもあり、時間があればゆっくりと過ごされるとよい場所である。朝には太極拳や気功などをしている人にも出くわし、中国人の余暇の過ごし方にも触れることができる。

 また、歴史好きの人なら渭水を眺め、古代ロマンにひたるのもよいだろう。


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