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(初めて咸陽へ  平成11年5月7日〜11日)

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◆ プロローグ。

 

 私   「部長、宇治郵趣倶楽部で、中国・咸陽市を訪問することになり、私も参加したく、5月に1週間ほどお休みを頂きたいのですが?いかがでしょうか?」

 部長  「連休のことやし、いいじゃないか。」

 私   「いいえ、その連休のあとに、さらに連休を頂きたいのですが?」

 部長  「なに!」

 私   「ですよね。たぶん、そう言われると思っていました。」

 部長  ・・・(半ば笑いながら。)

     「そんなことしたら、君の机が無くなるんじゃないか。」

 担当部長「部長、今時、そんな硬いことを言っとたら、部下はついてこないよ。いいじゃないか、1週間ぐらい。彼も、多少は息抜きも必要だろうから。」

 私   「無理ですよね。でしたら7日のところを5日にして、行ってまいります。」

 部長  「うん、よかろう。」

 そして、数日経ったある日。部長が私を机の前に呼んで。・・・

 部長  「○○君、君の転勤の噂がでているぞ。」

 私   「えっ、何処ですか?」

 部長  「四国、香川だそうだ。」

 私   「そんなはずないんじゃないですか?あそこは、数年後には、集約するというテーマで我々が今企画しているところではないですか。」

 部長  「わしもそう思っている。これは単なる噂だからな。そう気にすることもないだろう。」

 それから、しばらく経って、そろそろ旅行の準備にかかろうとしている4月30日(金)の午前9時私の机の上の電話が鳴った。

 担当部長「○○君、君か?君なぁ、6月1日より四国へ行ってもらうよう人事から内示があった。中国から帰ってきたら、すぐに転勤の準備に掛かってくれ!」

 社内の正式発表は、5月10日、そう、私が帰国する前日である。そして、課員はいまだに思っている。○○(私)は、中国へ行っている間に机がなくなった。と・・・・。

 

◆ エピソード−1。

 

 私   「郝さん(訪問団の通訳)、彼女(我々の担当になった中国華北航空スチュワーデス)に、この言葉を知っているか、聞いてくださいよ。」

 郝さん 「○×△、□△○×、△、□○×○?」  (中国語で会話している)

 スチュワーデス「□△、○□、○×△、□△○×」

 郝さん 「彼女は、知らない、と言っていますし、私も知りません。」

 私   「えっ?そんなはずないでしょう。この言葉は、秦の始皇帝の話には、必ず出てくる呂不韋の名言ですよ。秦の始皇帝は、咸陽市とは、切っても切れない人物ではないですか?」

 郝さん 「○○×、△、□○△、○□、○××△、□△○?」  (再び、中国語で会話している)

 スチュワーデス「○□、○×△□△□△、○□○×△、□△○×」

 郝さん 「秦の始皇帝は、知っていますし、呂不韋の名も聞いたことがありますが、『奇貨居べし』は知りません。日本人(作者)が勝手に作った言葉ではないですか。」

 スチュワーデスと郝さんが相手では、私も勝てそうにないので、一端は話はそこで終わり、別の話題になった。しかし、私にはどうして納得がいかなかった。

 数日後、咸陽市の通訳である王省南さんに再び聞いてみた。

 王先生 「ありますよ。中国では、こう書きますね。」・・と言って、『奇貨可居』を教えてくれた。

 私   「そうですよね。それで話が通じる。帰りの便に彼女(例のスチュワーデス)が乗っていたら教えてあげましょう。王さん、悪いですが、サインを頂けますか。」・・王先生は、メモにサインをしてくれました。

 「中国世本返句活」 咸陽市外事内公室 王省南・・・(ちょっと、車が揺れまして、読み取り出来ない漢字ですので、間違っているかもしれません。)

 

◆ エピソード−2。

 

 中国華北航空の例のスチュワーデスが機内食を運んで来て、

スチュワーデス「ジュース、コーヒー、ビールか何か如何ですか。」

私   「ビールを下さい。」

 スチュワーデス 「はい、どうぞ。」

私   「ありがとう。」・・・と出された『青島(チンタオ)ビール』を飲む。

私   「郝さん、これ生ぬるいね。」

郝さん 「そう。」・・・別に気にもしてくれなかった。

翌日、西安市のレストランでの昼食時に。

王先生 「ビールでも注文しましょうか。」

私   「ありがとうございます。」・・・と出されたビールを飲む。

やっぱり、冷えていない。咸陽市は、乾燥していて、やや暑く体が水分を欲しがる。しかしながら私は、夕食でのビールを楽しみに、喉の渇きをこらえた。そして、やっと、夕食の時間となった。これで、ビールが飲める、と独りごちる。

王先生 「貴方は、飲み物は何がよいでしょうか。お酒かビールか?」

私   「ビールを下さい。」・・・私は、まだ気づいていない。

王先生 「では、乾杯しましょう。カンパイ。」                                  

私   「ゴク、ゴク・・・・。」・・・とビールを一気に飲む。・・エッ、やっぱり冷えていない。この一杯が楽しみで喉の渇きを我慢してきたのに・・・

私   「王さん、中国では、ビールは冷やさないのですか?」・・・と、私はやっと気づいた

王先生 「そうですね。中国では、ビールはあまり冷やしませんよ。まぁ、明日以降、西安に行ったら、冷えたビールがあるでしょう。」

私は、興ざめし、なにかしら物足りなさを感じていた。しかし、王さんが言われたように、その後西安に行き、私は、冷えたビールにやっとありつくことができた。

 

◆ エピソード−3。

 

 少年  「○×△、□○×△、△、□○×?」

私に、特に興味があるが如く話しかけてきた。私の白い帽子でも欲しいのだろうか。ひたすら、私についてくる。

 私   「郝さんさん、この子よくついて来るけど、私の帽子でもほしいのかな。」

 郝さん 「□○×△×△、□○、○×△、□○×」  (中国後で少年に話しかける)

 少年  「○×□、□○◇△、□○◇」

 郝さん 「あなたの荷物を持ってあげるから、その代わりお小遣いが欲しいということだって。」

 私   「なんだ、帽子が欲しいのでは無く、お小遣いが欲しいのか。まぁ、私も修行の身だから、結構だと言っておいて。」

 郝さん 「□○×□×△、△○、○◇△、□×○」  (中国後で少年に話しかける)

少年  「○◇△、×○◇△、□○◇」

それでも、だいぶついて来たが、いい客でも見つけたのか、いつの間にか見えなくなった。

下山の時間となり、ロープウェイの近く迄戻って来たとき、少年も戻っていた。私は、少年のことが気になって、1本のボールペンをあげた。彼は、それをもらう理由がみつからなかったのか、ボールペンであることが理解できなかったのは、お礼の言葉はなかった。

 

◆ エピソード−4。

 

登り達した感慨が格別のものがあったが、やはり全員が一緒ではなかったことに寂しさがかすめたのは事実である。だから、帰りは気持ちが飛んだ。一刻も早く和尚さんや郝さんさんのところへ戻ってあげたい。それが、会長にも伝わっていたのか、否か。

幸い私は、双眼鏡を持参しており、随分上の方から、まず郝さんの待つ場所を確認でき、彼女と手を振りあい、再会(しばしの間であったが、待つ身の彼女は長い時間でもあったはずである)に胸が踊る。それから、待つこと数分、今度はお母さんが、2番手で下りてきた。それから、さらに時間が経ち、予想に反して、会長が下りてきたのである。3番手である。

私   「じゃ、後の支部長、お父さんは、会長さんに待ってもらうことにして、郝さん、お母さん、私3人は、

和尚さんのところ迄、急ぎましょう。」      

お母さん「じゃ、そうしましょう。和尚さんも待ちくたびれているでしょうから。」

郝さん 「・・・・。」   (返事がな〜い。)

私   「郝さんは、一緒に行かないのですね。会長さんと残りの方を待ってもらえますか。」

結局、私とお母さん2人で先を急いだ。この時郝さんは、心に何か引っ掛かってくるものを感じて、いたのだろうか。

 (後に聞いた話ではあるが・・・)この後、突然会長さんは疲れのためか気を失い、郝さんの必死の介抱で、数分後、普段の会長さんに回復したという。

 翌日、再び、会長さんは、倒れることになるが、この時も変化を最初に察したのも郝さんであった。

 

◆ エピソード−5。

 荒木会長が体調を崩し、救急車で病院へ送り込まれ、その後、我が訪問団も活気がないまま、観光を続けることとなった。昼下がりの気だるさと会長のいない寂しさに、体も自制が効かないのか、昼食時のビールが祟る。トイレが近くなり、高速道路でむりやり車を止めようかという矢先、何とか用をたすことができた。

 私の知っている範囲では、中国の歴史には登場しない、永泰公主という女性。その方のお墓(陵)。柩まで百メートル以上を薄暗い空洞のなだらかな坂道を歩いて行く。その冷やかな壁に手を触れれば、中国の歴史の流れを体感することができる。そして、彼女が眠っていたという柩の間にたどり着けば、何かしら荘厳な気分にもさせられた。壁、天井にもそれは宿っていた。

 そして、みやげもの屋で、だるま像と並んでいる阿部仲麻呂像の掛け軸を見たとき、ふと日本人を意識した。そうだ、中国の永い歴史にも、その昔、日本人が係わっていたということを改めて認識した。

◆ エピソード−6。

私は、買い物を4度行なった。1度目は、西安城郭内で兵馬俑のミニレプリカを買った。王先生のお勧めの店である。

2度目は、華清池で、娘らのネックレス3本と腕輪6本を買った。 この2回分は、会長も同じようなものを買っていたので、値切り交渉もスム−スで、さらなる交渉に通訳さんも入ってくれたので、満足のいく買い物であったと思っている。

 特に、腕輪の買い物は、もうこれ以上負けられないが、もう1本おまけにつけるということで、成立した。そして、私のバックに目を付けたのか。ボールペンが欲しいが呉れないかという。1本あげると、友達にもあげて欲しいというので、さらにもう1本あげた。

 3度目は、最終日に泊まった住建国飯店の中の売店で、お茶数袋と娘のチャイナ上着2枚を買った。この時、初めて中国のお金に替え支払った。これには、支部長が交渉してくれ、酔っていた私は、何をどう買ったかはさだかではない。

 4度目は、西安空港の売店であるが、中国のお金と不足分を日本円で支払った。この時の交渉は、1人であったが、売り子は女性であり、幸いにも日本語がわりと通じた。 

 先ず、正札1個60元を、買えと言わんばかりに、彼女はいきなり50元に下げてくれた。5個買うからもっと下げろと言うと一度は、躊躇するしぐさをしたが、40元で了解した。今度は、12個1ダース買うからもっと頼むと、責任者に相談に行き、35元にしてくれた。                             さて、支払いの段になり彼女は、35×12の筆算をやりだした。

ところが、計算はあまり得意でないのか、答えを425元と言う。「いいや、違う420だ」というと、それを彼女は値切りだと思い、これ以上は安くできないと反論してきた。そこで、私は、彼女のメモを取り、筆算のおさらいをしてあげ、納得したようだった。

 次に、中国のお金で不足した分、日本円で支払うというと、いよいよ責任者が出てきた。これも女性で、素早く日本円を電卓で計算しはじめた。そこで、レートを1元15円で指定し、百円以下を切り捨てて貰うことにした。 果して、儲けたのか、損をしたのか。不足分の5千円を出し、釣り銭に百円玉が入っていたのには、驚いた。

 

◆ エピソード−7。

最終日の出立の朝、結構早くから迎えの劉科長を待っていた。

その間にホテルの接客チーフから、英語で、「イングリシュ、オア、チャイニーズ」らしいことを聞かれ、私は、「日本人だ」と中国語で答え、「リトル、イングッリシュ」と答えた。

それに、「エヤポート・・・ダーガイ、ヤオ、ドウシャオウ、シージエン?」(空港までどのくらい?)彼女は、「ワン、アワー」と言ってくれた。「タクシーを呼ぼうか」といってくれたみたいだが。

「マイ、フレンド、カミング・・」らしいことを言うと理解したみたいで離れていった。

ところが、こちらの予測時間に劉さんは来ず、ややこころ細くなって、フロントに近づくと再び彼女が応援してくれたのには、ありがたかった。やや経って、劉さんがやってきた。

 その後、そんなに急がなくてもと、ホテルの朝食をとることにした。その間に、王先生や荒木会長、山田のお母さんも起きだした来て、大層な見送りの場となってしまいました。

 特に、お母さんには、「折角、仲良くなれたのに、寂しくなるね。」と言われたときには、ジーンとくるものがあった。

 

◆ フィニッシュ。

    華山のトイレは、有料だったが、渓谷への落とし便所だった。入ったとたん、1人の男が大きい方を用たししており、ズボンをさげ、おしりがまる見えの光景は、異様であり、文化の違いが身に沁みた。

     中国の乾杯は驚異に思っていたが、幸い酒豪が少なかったのか、想像以上に飲めた。

     中国の食事は、やはりあまり好きになれなかった。でも、3日目ころどうやら慣れた。味は、どういって表現したらいいのやら。酢がベースかな。そう、私は酢の物は、日本でもあまり好きではない。

     中国の美人には、お目にかかれなかったみたい。後の話しでは、西の方は少ないとか。でも3日目の昼食時にアルコールが入っていた勢いで、ウエイトレスに声をかけ、「日本に遊びにお出でよ」というと(王先生が  苦笑いで通訳してくれた。)「一般の中国人は、海外には出れないの。」とか。ちなみに彼女は、サインを呉  れました。『劉 敏(Liu Min) ・咸陽市験小学(戸芳娥収)』ようわからん。

     乾陵(即天武后)では、石仏の首が無いのには、異様なものを感じた。荒木さんを欠いていたので、盛り上がりも無かったし、また行ってみたい。

     中国のお金に接する機会が少なかった。コインには全然縁がなかった。

     例のスチュワーデス、もっと名前とか住所とか電話番号?聞いときゃよかった。(でも、日本が通じなくてもスチュワーデスになれるんだ。話しに聞くとお嬢さん育ちで、親の?光でなれそうだとか。

     咸陽市政府への表敬訪問、なんだか宇治市の代表でいったみたいで、鼻高々気分でした。

     切手展の開会式、暑かったし、後ろに荷物を持っていたので、手がしびれていました。あいさつを2ケ国でやるもんだから、時間が長く閉口した。さらに、来賓でかっこよかったのに、写真がないのは残念だった。

     切手展、ゆっくりみれなかったなぁ。一般の人を待たして、我々だけ通してもらったけど、短い時間で、自分の作品の前で写真とるのが、やっとでした。

     帰りが1人だったので、こころ細い部分あり、おまけに、上海での出国手続きに書類の記入要領が分からず差戻しを2回もくらってしまいました。でも、アナウンスは、日本語でもやってくれていました。中国には、それだけ、日本人が多いということか。

     今回、諸事情の為、本団より早く帰ることになり、訪問やら観光も心残りが沢山ありました

     後ね、中国語で「ツウーソウ、ザイナール?」(トイレは何処?)なんて、レストランのウエイトレスに聞いて、通じたのか、ちゃんと場所を指してくれました。

    咸陽市のたくさんの方にお目にかかれ、いろいろご便宜を計って頂き、正直名前すら覚えていない、聞いて  いない方も多く、又、顔と名前が一致しない方もおられますが、また、会える日を楽しみにしています。必ず  また、咸陽市を訪問したいと思っております。

    ほんとうにありがとうございました。    再 見   !

平成11年6月6日記。

                                                                               

 

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